バランス感覚

良い意味なのか悪い意味なのかはさておき僕は人から、個性があるね。と言われることがすごく多いです。


僕の脳みそはお花畑なのでそう言われることを誉め言葉として捉えています。


ただ、はたまた別の人からは周りと調和することが上手だね、人から好かれやすい性格だね。と言ってもらえることもあります。


僕の脳内お花畑フィルターを通すと、これもやはり嬉しい誉め言葉です。


よく一般的な通念として唄われているのが個性が強い人は周りと調和するのが苦手で、周りと調和するのが上手な人は個性が無い、みたいなニュアンスが多い気がしています。


今回はこの通念に対する僕なりの意見を述べたいと思っています。


僕はそもそも、「個性を出すこと」と「周りと調和すること」は対立概念では無いと思っています。

 

掘り下げると、個性を出すべきところでは十二分にその個性を発揮し、周りと調和すべきタイミングではしっかり周囲と足並みを合わせる、ということです。


つまりこの2つの概念はトレードオフの関係ではないということです。


個性を発揮しながらも他人や世間の風土に耳を傾け、調和していく。矛盾を孕んでいるように思えますが、実現可能であると考えています。


ただし、はじめから個性を出しながら周りと調和しようとすると失敗していまうと思っています。


個性を出すときはその方向に100%力を出し切ります。そのときは調和など気にかけている場合ではありません。突っ走るべきだと思っています。


これを極限までやると壁が見えてきて、やがてぶつかってしまいます。そのときにやりすぎたことに気づき、逆の方向の壁、つまり調和の方向に走りだします。


するとまた壁にぶつかります。周りと調和することの限界を見たわけです。


個性を出すこと、周りと調和すること、それぞれの限界をしれたことによって、その壁と壁の中点を記すことができます。


両端の壁の位置を把握していないときには見えていなかった中点が想起できるようになり、そこで初めて個性を出しながら周りと調和する段階にいたることができると考えています。

 

仏教ではこのような言葉もあります。

「左右極限を知らねば、中道に入れず」


先述しましたが、個性を発揮すべきところでは思う存分個性を出し、周りと調和すべきところで空気を読んでそこに溶け込みます。


その一瞬一瞬で自分のあるべき姿を選択して点をうつとするならその点がうたれるのは、僕のいう中点ではありません、点は両端によったまばらな点になります。


しかし、長い人生でうたれたそのたくさんのまばらな点を平均した点を1つだけうつとします。するとそれが中点になっている。


これが、個性を発揮しながらも他人や世間の風土に耳を傾け、調和していくことだと思います。


僕は人生をかけてこのバランス感覚を追い求めていきたいと思っています。


思うようにいかず、図らずともおかしなところに点をうってしまう時もあったし、これからもあると思います。


しかしそれを内省し、改善し、新たな点をうとうとする。それが大切だと思っています。


それでも疲れてしまって点をうつのがおっくうになってしまった時には、誰か一緒にお酒を飲んでください。


また次の日から走り出せると思います。

演劇

先日、友達に演劇部の舞台を見に行かないかと誘われました。

 

演劇は今まで数回しか見たことが無かったので、演劇自体がどういうものなのか、という興味本位もあってついて行きました。

 

今回見た演劇は立命館の演劇部が主催する舞台で、脚本こそプロの書き下ろしのようですが、キャストや演出は学生が担っているものでした。

 

過去に数回しか見たことのない演劇は、キャスト、演出を含め全てがプロの担当していた演劇でした。

 

そのこともあって、どこまで学生がやれるんだろうと、純粋に楽しみにしていました。

 

いざ舞台が始まると、新入生歓迎の時期というのもあり、学校での淡い青春をテーマとした舞台でした。

 

すごいなと思いました。

 

僕と同じ学生たちにスポットライトが当たり、些細な感情の情景を細やかなアクションや声のトーンで表現し、時には笑いを生み出すようなリズミカルな喋りもあって。

 

そこに学生ならではのエネルギーみたいなものも含まれていて、十分なほどにクオリティも高かったです。

 

もちろん、プロに同じことをやらせたらもっとクオリティを突き詰めてやるんだとは思いますが、

 

今回の演劇ですごく感じたのは、表現することに一生懸命な人たちはかっこいいなということです。

 

表現することは実は難しかったりすると思っています。

 

なぜなら、自分が完全完璧じゃないことを知っているからです。

 

自分がプロでない限り、上には上がいる世界です。

 

「表現することで辱めを受けるかも知れない」と足がすくみ、この思想が表現することへの抑止力になりかねないと考えています。

 

それを払拭するどころか、堂々とした振る舞いで演技する彼らはかっこいいなあと思って見ていました。

 

他の脚本や演出に関しても自分なりの着眼点を持って、頭を使いながら観察できたこともあって、勉強になりました。

 

なんか、無性に能とか歌舞伎とかも見てみたくなりました。笑

余白

抽象化された言葉をうまく扱えるようになりたいという願望が常々あります。


抽象化された表現ならではの魅力があると思うので、それをミュージシャンが書く歌詞になぞらえて勝手に説明しようと思います。


僕の好きなミュージシャンはスピッツサカナクションthe novembersです。


これらのミュージシャンには言い出したらキリが無いくらいの魅力がたくさんありますが、今回のお題である「抽象的」な歌詞が魅力の共通点です。


ミュージシャンによって書く歌詞は様々ですが、具体的な歌詞と抽象的な歌詞の2つに分類できると思います。


具体的な歌詞とは、読んだら言葉として簡単に理解できて、使い馴染みのある親密性のある言葉をよく綴った歌詞と定義します。わかりやすい例を挙げると西野カナのような歌詞です。


その逆の抽象的な歌詞とは、読んでも言葉として理解するのが難しく、馴染みの無い言葉やその繋ぎ方をする歌詞と定義したいと思います。


僕は抽象的な歌詞を書くミュージシャンが好みです。なぜかといいますと


まず、抽象的な歌詞は聞き手側の人によって解釈が異なるということです。掘り下げると、歌詞の意味する本質に余白があるということです。


つまり、聞き手側がその余白を自由に埋めて解釈することができます。ここで重要なのが、聞き手側の自発的な解釈が介入しているということです。ある種、歌詞を書いた側と聞き手側の共同で作詞をしているようなものです。


一方、具体的な歌詞にはその聞き手側が自発的に解釈する余白はありません。その代わりに老若男女誰でも言葉として理解ができ、受け入れられやすいというメリットもあります。


抽象的な歌詞は「何を言いたいのかがわからない」と受け入れられない可能性があるからです。


ここで話を戻して要約すると、抽象化された表現には魅力があって、それは聞き手側が自由に解釈する「余白」があることです。


詩とかその余白の賜物ですよね。
書いてみようかな。

ビジョン

やっぱりおれはずっと好きなこと、やりたいことに燃えていたいし生きてる限りビジョナリーでありたいと、この1年で実感しました。


若干21歳、本当に失う物は何も無いし、いまから挑戦していかないと一生何も成さずに終わるなと。


バカにされてもいい、笑われてもいい。


好きなことを大切にしたいなと思います。例えば感情を押し殺すことなく美しく表現できるものを大切にしたい。


それが写真なのか、はたまた別のものなのかはわからないけど、ずっと続けたいなと思っています。


社会に染まって、うやむやになって、表現することを躊躇って、がんじがらめになって、愚痴をこぼす人にはなりたくないし。


だからといって冷静な世間の目をガン無視するわけじゃなく、意識しながらマイノリティに属したいと思っています。


批判は吟味しながら受け流したい。


客観性を失った自分らしさは傲慢になり得ると思うからです。


口だけなら誰でも言えます。言葉に信憑性を乗せるのは行動と結果、そこには甘えることなく全力で尽くしたいと思います。


どうしても周りの人たちと調和できない部分が出てきて、嫌われちゃうことも多いかもしれませんが、それだけに仲良くしてくれる人は大切にしていきたいです。


以上、勝手に生き方宣言してみました。

感性

2018年を自分のモノに対しての感性の変化から振り返ってみようと思います。


とにかくいろんな国の美術館、博物館に行きまくりました。約20ヶ所。


何が美しいと感じるか、どんなバックグラウンドを持った作品に惹かれるのか。


作品を見ているようで、作品を見ている自分の感性を俯瞰して見ている感覚でいました。


丁寧に数をこなせばやはり見えてくるものがあって、自分の美的感覚や価値観がかなり明確になりました。


アートや歴史的文化物に対しての自分の趣向がわかると、他の芸術分野に対しての美的感覚にも影響が出てきた実感があります。


何を言っているのかというと、好きな音楽の系統がより明確になったり、空間の造形、人の雰囲気を感覚的に捉える力がついてきたなと思っています。


モノが認識をつくるのではなく、認識がモノをつくるというのは自明だと思いますが(仏教でいう唯識)、自分がどういう認識をしてモノを見るのかを真剣に見つめ直すことでモノを捉え直して客観的に再定義できると実感しました。(ここでいう認識は前述の自分の美的感覚や価値観、趣向のニュアンス)


どういう美的感覚でモノを捉えるのかを可視化する、自分のモノに対する認識をアウトプットするツールとしてカメラはいいなと思っていて、たくさん写真を撮っています。


2019は美的感覚のアウトプットで何か新しい感覚を得られることを期待。


抽象的な話でびびるぐらいわかりにくくなりましたが、おれのブログはそういう場所でもいいでしょう。うん。笑

 

 

アート

今日まで各時代の文化の象徴としてアートが捉えられてきた面は大きいと思いますが、最近はビジネスにおいてもアートの重要性にスポットライトが当たり始めていると感じます。


大量生産大量消費のようなやることが定まっているようなプロセスは、今後のAIを筆頭とするテクノロジーが発展していくに伴ってそれらに置き換わって行くことが予想されていると思います。


そういった中で注目されるのがAIには無い、人にしか生み出せない感性を活かしたクリエイティビティ、つまりアートが重要な役割を担うはずです。


ここでそもそもアートって何なのかを考えてみようと思います。


僕が考えるアートの定義は端的に言うと、「美しい物」です。


ただこれだけでは抽象度が高いので掘り下げて行くと、「美しい物」というのは見る人の感性に委ねられます。


というのも、ある人が美しいと言ってとしてもそれが万人にとって美しいとは思われないからです。


例えば、ペットボトルだけで作られたキリンの模型があったとします。


ある人は、日常にありふれたものをうまく作品に取り入れて予想外のことをしたから美しい!アートだ!
と言えば
別の人は、ゴミの塊だ。と言います。


ここで重要なのは、このキリンの製作者はこの作品をどう捉えているかです。


当たり前ですが、これは美しい!と思ってつくっているはずです。


つまり、製作者の主観としては「美しい物」でありアートということです。


ゴミの塊だ。と捉えた人にとっては「美しい物」ではないのでアートではありません。


なので僕は、主観と客観にとらわれない絶対的なアートは存在しないと思っています。


見る人によってその作品がアートか、そうじゃないか定義されるということです。


裏を返せば、自分のこれは「美しい物」だと思う感性を表現する際に
「これはアートだ!」と自信を持って言えばいいと思っています。


他人の感性はコントロールできないので、主観でアートだと認めることしかできないと思うし、それでいいと思います。


主観と客観を別で捉えてるので、他人からそんなのはアートではないとレッテルを貼られても関係ないわけです。気にかける必要がないと思っています。


逆に、もし他人が「これは美しい!アートだ!」とレッテルを貼るものに自分が美しさを感じなければそれはその人にとってはアートでは無いとしていいと思います。


この価値観はマジョリティーに認めらたものがアートであり、認められないものはアートでは無いという思考にも至りません。誰しも0から始まるわけですし。


この定義の上で僕は僕なりのアートを発信していけたらいいなと思ってますし、他人が何をアートと捉えて発信してるのかすごく興味があります。

 

右脳と左脳

論理的な思考は左脳。
アート、発想などのスピリチュアルな思考は右脳が担当していて、それぞれが分離している。と思っていたのですが、どうやらこの仮説は間違ってるなとここ一年で感じることができました。


僕はごりごりの理系で、暗記が大嫌いで論理的でないと勉強する気もおきませんでした。


僕の高校時代はそれが顕著です。
ほんとに数学しかしていなかったからです。他の人より明らかに数学にかける時間が長かったので、人並み以上にはできたと思います。


数学ができるようになっていくに連れて、気づいたことがありました。


知識が蓄積される前では、難しい問題に対して
「どうやったからこんな回答思いつくんだよ。」
と思っていました。


こういう解法を思いつく人は天才で、自分には到底無理なことだと感じていました。


それでも基礎をしっかり固めた後に難しい問題に出会ったら、おもしろいくらい解法が思いつきます。


ここから気づいたのが、右脳による発想力を鍛えるには左脳による論理を徹底的に詰めることが大切だということです。


左脳の論理的思考が材料となって、右脳の発想が生み出されると思ったからです。


さっきので言うなら、難しい問題に出会ったときに左脳による論理的な基礎を材料として持っていなければ、当然右脳は機能しないということです。


僕は哲学、宗教をさわり程度ですが独学で勉強しています。


そこで感じることは、左脳を使った論理的思考が無いと絶対に本質は理解できないと感じました。


論理を超えた先にアート、発想、スピリチュアルがあるのであって、この順序はひっくり返せないと思っています。


左脳と右脳は分離していてお互いに干渉し合うことは無いと考えていた僕にとってこの意外な繋がりはすごく大きな気づきでした。