なぜいま「自由」?
最近日本において、「自由」という概念に拍車が掛かってきているなぁと実感しています。
「好きに生きたらいい」
「周りなんか気にする必要ない」
「自由にすればいい」
メディアや著名人はこのフレーズをやけに売り出しているように思います。
誰しも100回ぐらい聞いたことのある言葉になってきています。
言葉を鵜呑みにする前に、この謳い文句の本質を考えてみることが重要だと思っています。
さっそくその本質に迫りますが、こんなに自由が強調されるということは今の人たちが自由に生きられていないということが前提にあります。
なぜ今の人たちは自由に生きられていないのか。
近代の日本は、戦後1955~1973年まで続いた高度経済成長、人口増加により経済は右肩上がりが続いていた日本は封権制度を整え効率性を重視した社会システムを創り上げてきたと思います。
これには個人の自由は少ないですが、経済が発展する限り、決められたルールで結果を出していけば年収は上がり続け、日本は活気づいていった時代です。また終身雇用や退職後の社会保障制度などの安定性も備えていました。
しかし時代は変わっています。今からは経済規模の縮小、少子高齢化による人口減少が見込まれています。
経済が右肩下がりなので、決められたルールで結果を出したとて年収はあがるどころか下がっていきます。さらに時代の変化が早いために会社の終身雇用は廃れ、少子高齢化によって社会保障制度も破綻していきます。
自由の少なさを引き換えに得ていた便益(給料や安定性)を失った途端に、自由でないことに違和感を覚え始めたのだと僕は解釈しています。
これを踏まえれば見えてくるものがあって、古い社会システムのままで、ルールにとらわれて生きるだけでは日本全体が落ち込んでしまう危機に陥ります。
古い社会システムを抜本的に改革していくしかありません。
それはつまり「自由」に重点がおかれた社会システムへの改革です。
封権制度、年功序列の中で言われたことだけをこなす人材は必要ありません。改革が必要だからです。
自分にしかできない価値を自分で創造して、個人単位で社会に価値を提供していく時代に変わっていきます。変わっていっています。
「好きに生きたらいい」
「周りなんか気にする必要ない」
「自由にすればいい」
本質を見れば、なぜ急速に自由が求められる世の中に変わりつつあるのかが理解できると思います。
「自由」、大賛成です。すごく面白い時代に生きているなと感じています。
カメラ
新しいカメラを買いました。
NikonのCoolpix a900というモデルのコンパクトデジタルカメラです。
いわゆるコンデジです。
1つ目のカメラを購入したのが約4ヶ月前の6月で、そこからのめり込んでしまい、新しいのを購入しました。
自分でも意外でした。というのもカメラを持つ前までは
「最近のスマホは画質いいし、それで十分でしょ」
と思っていたからです。
でも初めてカメラを購入して、カメラならではの魅力がたくさんあるなと感じました。
今回はその魅力について語っていこうと思います。
まず、写真をたくさん撮りたくなることです。
それがどうしたと言われそうですが、これは本当に大切なことです。
好きなカメラを持ち運んでいる時は、意地でも撮影スポットを探そうとします。
すると何が起こるかと言うと、今までなら当たり前だと思って見過ごしていたものがたくさん見えてきます。
自分の目が、今までにない視点の使い方をするのでなんでもない建物や景色に美しさを見いだせることに気づきました。
そしてその美しいと感じる感性はまさに自分の感性であり、自分は何を美しいと感じるのかが掴めるようにもなってきます。
それをインスタにアップすれば、それはもう立派な個性です。画質もいい。
つまりカメラを持って歩くだけで、もう1日が楽しいです。
旅行もカメラがあれば約5倍は楽しめると思います。
お金が貯まれば一眼レフにも手を出していきたいです。笑
蓄積
イギリスに留学に来て7ヶ月経ってあと残り3ヶ月。
そんな状況の僕が今思うことは、ただただ幸せだということです。
イギリスだからこそできることやヨーロッパを旅行することで得られる非日常的な体験、すごく楽しいし、充実しています。
ただ今回話したいのは外的環境へのリアクションとしての幸せではなく、内的な変化、自分自身の成長についてです。
イギリスといえど、7ヶ月もいれば環境にも慣れてきて毎日経験したことのない新しいことが次々と起きるかといったら当然そうではありません。
言い方を変えるなら、飽きてくる部分があるわけです。
つまり、外的環境に依存した幸せは持続性がありません。
外的環境には、他人も含まれます。
つまり、他人に依存した幸せも持続性がないと捉えます。
自分がある特定の人を好いていても、相手からそう思われていなければ期待したリアクションはありません。
また、人それぞれその人の人生で一生懸命なために、基本他人のことを気にかけている暇はありません。
つまり外的環境は不安定であるため、当然それに幸せを依存している人の幸せは不安定です。
もちろん人が生きる上ではどうしたって外的環境に影響を受けます。
それに、外的環境を受けるからこそ、人との関わりの中で生きるからこそ生き甲斐を感じられ、人生は楽しいのだ、という意見にも大賛成です。
ただ僕はそれだけでは不安定だと言いたいです。
そこで反対に、自分が主体的に幸せを作りだせてそれに持続性があれば、外的環境に振り回されずに確固とした自分を持ち、常に幸せであることが可能だと思っています。
そんなものが存在するのか?と思う方がいるかもしれませんが、しっかりあります。
それは「自分自身の成長」です。
これだけは、自分が主体的に幸せを作りだせて持続性もあります。
昨日より今日、今日より明日の自分の方が確実に進歩している、人間として成長している。
この実感は間違いなく自分自身に幸せをもたらします。
そして当然そうした生き方をしていれば魅力的な人間になっていき、結果を出せるようになると思います。
忙しい他人は自分を何で評価するかといったら、結果で評価します。
人は、結果を出している人に興味を持ちます。少し冷たく聞こえるかもしれませんが、これは事実です。
つまり、自分自身を高めることに集中して生きれば、毎日の成長に幸せを感じながらも魅力的な人を惹き付けることもできると思っています。
僕のこの留学7ヶ月は毎日自分自身の成長を感じると同時に、魅力的な人と交流できるようになって来ていることにも喜びを感じています。
まだまだ学びたいことはたくさんあるし、毎日時間が惜しいです。
本当に暇だと思ったことが1秒もありません。
あと3ヶ月、どこまで頑張れるか、成長できるのか楽しみです。
語彙力
語学留学で英語を勉強しているからこそ余計に感じることかもしれないけど、語彙力って本当に大切だなと感じます。
さすがに半年も留学しているから、自分の言いたいことのニュアンスは伝わる程度の英語は身に付いたと思います。
この前授業で、Capital panishment(死刑制度)についてディベートをする機会がありました。
意見が浮かんでも、ニュアンスが伝わる程度の拙い英語では口を噤むしかなく、少し悔しい思いをしました。
デリケートな話題なだけに、詳細に自分の意見を伝えられず誤解を招くのを恐れたからです。
つまり伝えたい意味合いと捉えられる意味合いに差があるということです。
日本語でものを考えて、日本語で発信するときも同じことが起こりうると思います。
自分の伝えたいことがうまく言葉として置き換えられないがために表現できなかったり、表現したとしても意味合いが違って捉えられたりします。
感情や物理現象を言葉に置き換えようとすると、一気に情報量が削ぎ落とされて抽象的な概念になってしまいます。
でもそれは言葉の綾であるから仕方ないことだし、何より人間は言葉を介して通合うことがほとんどの場合だと思っているのでそれとどう向き合うかが重要になってきます。
語彙力を付けていくことで、言葉が感情や物理現象に近づいていくことができて、より詳細に、鮮明に他者に伝わります。
これだけネットインフラが整っていると自分の発信する言葉が一瞬で多くの人の目に付き、解釈されるという意味で重要性は増しているのかなとも感じます。
また、語彙力があるからこそあえて完璧から少し外した言葉を扱うこともできると思っていて、それが詩だったりするのかなと思います。
詩の美しさは言葉を極めた人しかできないと思います。
伝えたいことをできるだけ詳細に伝えるための語彙力を日本語でも、英語でも付けていきたいなと思います。
どれが本当の自分か
誰しもが1度は本当の自分は何なのか、何を望んでいるのかは考えると思います。
僕もたまに考えていてなかなか収集がつかなかったんですが
小説家の平野啓一郎さんが「分人主義」という新しい概念を提唱されているのを知って、なるほどなと思いました。
平野さんが定義する分人とは簡単に言うならばシチュエーションによって変わる自分の人格のことを指しています。
例えば、家族といるとき、上司といるとき、部下といるとき、友達といるときで人は対応を変えて接すると思いますが、それは自分自身に何個もの人格があることを意味しています。
これを前提に平野さんはさらに話を進めていて、自分の好きな分人でいられる時間を長く過ごすことがストレスフリーであり自由だと感じることができるんだと仰っています。
それはつまり一緒にいて心地よいと感じることができる相手は、自分が好きな分人でいられる人ということだと思います。
僕の中で十二分に腑に落ちて納得していたんですが、さらにそれを深めてくれる思想に出会いました。
「アドラー心理学」という思想です。
この思想は平野さんの「分人主義」の思想と共通点があるなと感じました。
アドラー心理学の概要の一部を抜粋すると
『個人を、例えば、心と身体のような諸要素の集合としてではなく、それ以上分割できない個人としてとらえる。したがって、アドラー心理学では、心と身体、意識と無意識、感情と思考などの間に矛盾や葛藤、対立を認めない。それらは、ちょうど自動車のアクセルとブレーキのようなものであって、アクセルとブレーキは互いに矛盾し合っているのではなく、自動車を安全に走行させるという目的のために協力しているのと同じように、個人という全体が、心と身体、意識と無意識、感情と思考などを
使って、目的に向かっているのである。』
(wikipediaより一部引用)
これはアドラー心理学において重要な一角を担う考え方です。
これはつまり自分という存在は、心と身体、意識と無意識、感情と思考などを包括する存在であり分けることができないという意味です。
僕の場合、本当の自分は何だ?と考えることは、この意識と無意識はどちらが正しい自分なのか、この感情と思考はどちらが正しい自分なのか、と二者択一で選択することを今までしようとしていましたが
分人主義、アドラー心理学ではそれら両方、全てを備えたものが自分自身であり、それ以上でもそれ以下でもない。という思想をとっています。
シチュエーションによって変わるたくさんの分人を全て包括したものが自分自身である。
ケースバイケースで人格を変えていくことは極自然なことであり、変えていくことを正当化してくれたような気がしていて、
「どれが本当の自分か?」という疑問を解決してくれたように思いました。
そして自分が好きな分人でいられるようなシチュエーションを作っていきたいと思って頑張ろうとも思えました。
閾値を超えて
音楽、服、お笑い、学問、映画、本、アート、スポーツ
分野が違っても、その道を極めた偉大な人たちのパフォーマンス、作品から与えられる感情は共通していてたった1つ、心が芯から震えて圧倒される感覚。
これって本当にすごいことだと思ってる。
山の登り方は違えど、目指してる頂上は同じものなのかなと感じる。
どれだけの努力があればそこまで辿り着けるんかなぁ。
本当に尊敬するし、勇気づけられる。
縁
どうですか?深いこと言いそうなこのタイトルは
僕は今、イギリスに語学留学しにきてます。
10ヶ月間、2018年4月から来年2月まで。
こっちに来てから気づきましたが、10ヶ月間も留学する人は語学学校内ではかなり少数派、マイノリティーです。
ヨーロッパ圏の人は地理的に近いから英語を学びに来るというより短期間の旅行的な感覚で来る人が多いです。
しかも今は夏休みだから、アジア圏からも来て1ヶ月とか短い人は2週間とかで帰っちゃう人たちがまあ多い。
なのでたくさんの出会いと別れがあります。
仲良くなってもすぐに帰っちゃう、みたいなことは日常茶飯事。
関わることは時間の無駄だと思うことも1つの考え方だと思います。
それでも1つ1つの出会いを大切にしていく、今目の前にいる人は縁ある人だからその人にちゃんと向き合う。
するとね、運が味方につくんです。
人が人に連鎖して運を自分に運んできてくれる。
実際、いい出会いに恵まれてる。
僕は今、まさに今、ヒースロー空港でドイツのフランクフルトへ向かう便を待っています。
僕はイギリスでホームステイをさせてもらっているのですが、前のルームメイトがドイツ人でした。
彼は2週間だけイギリスに来てもう2ヶ月前ぐらいに帰国しちゃたんですが、彼に会いに行くんです。
彼の家に2泊させてもらう予定です。
なかなか無い縁でしょう。感謝。
旅行する度にハプニングだらけなんで今回は気を引き締めて行きます。